ついに、外食でもメラミン出ました。
食品、外食両面今後も続く可能性が高いでしょう。
しかし、これで発覚した店は行かない!などの一店に焦点あてた、安易な行動は望ましいと思えません。
ファミレスも、がんばっています。
ただ、対応や危機管理は、いろいろ言われていますが、外食産業が成長期であったころから世の中が変化していることをきちんと捉えているか再考は望まれます。
乳製品も農産物も日本で満足にまかなえない国に私たちはしてしまい、
富士山から数千年以上かけてミネラル豊富な土を通して流れた水を、大事にせず、
四季を持つ贅沢を理解できず、
海山川に囲まれた食材豊富な土壌と、林業の素晴らしさに気づけず、
すべてを他国から購入する流れになれてしまった。
足元を見て、分別を知ることを忘れてしまった。
食の分別は、人生の分別なり。
社会性の欠如やモラルの欠如、国のモラルの欠如となっていきます。
社会のコミュニケーションも、人間関係も規律も柔らかみも足りない今は、
まず、自分の命をつくる「食」に抜本から本気で向き合わないと、この国はどうなるのか。
他国からの食を批判する前に、批評家になる前に、作り手になることを考えましょう。
みな、それぞれの立場で、作り手になりましょう。
手作りをしましょう、という意味だけでなく、手間暇とかけることに価値を見ましょう。
モノつくりの原点を再考したく思います。
食は、無から有をつくり、それを食べてまた無にする、不思議なものです。
しかし、体に入ることは、心に入ることでもあります。食べて見えなくなっても、それは無ではないので、この辺も、食の大切が見落とされがちな要因でもあり、いっぽうで、だからこそ大事なものであると、思っています。
幼いころは、美食だった(確かにかなり際物まで食べた、高価稀少も食べた食べた、海外にグルメ旅行もさんざんした)小倉ですが、
おいしいとはなんぞや?
消費だけでは申し訳ない。
周囲に作って、凝った料理を楽しむのは、子供のころは多々やってきました。
しかし、それは、家族間消費なのです。
そこに原点があって当然ですが、あくまでも限られた身内の消費なのです。
まだ何もできていません。
でも、意識は常に、食そのものではなく、食を通した人なりにあり、と思って毎日、私なりに
“評論家”にならないように、毎日、生活で実践しています。
次回、消費者は今後どうしたらいいか、について見解を書きます。